会社沿革

株式会社油忠地所の歩み

江戸中期 油屋(種油の製造飯売)を家業とする。
明治43年 酒・食料品米穀・薪炭・油類を販売。
昭和24年 資本金800,000円にて「有限会社石塚食品工業所」設立。
昭和39年 酒・食料品・薪炭・油販売及び精米所に加え、製麺業を開始。
昭和43年 不動産取引業を併業し、「油屋忠蔵本店」開業。
昭和46年 有限会社石塚食品工業所と不動産業・油屋忠蔵本店の合併。
「有限会社油屋忠蔵本店」に名称変更。
昭和52年 資本金2,000,000円に増資し、城南宮支店開設。事業を4種類に分割。
・酒、食料品、植物油
・工業用油、液化ガス、ガソリンスタンド
・造園
・不動産
昭和58年 資本金8,000,000円に増資。
油忠不動産株式会社に組織ならびに名称変更。
昭和61年 油忠第一ビル竣工。
平成元年 株式会社油屋忠蔵本店
(資本金10,000,000円)設立。
油忠不動産株式会社より不動産賃貸借業務を独立。
平成18年 株式会社油屋忠蔵本店を株式会社油忠地所に名称変更。

伏見の歩み

伏見のあゆみ

俯見、伏見、伏水…みんな「ふしみ」と読んで、古くは、今の長岡京市や向日市、久御山町、宇治市から、さらには宇治田原、城陽あたりまでも含めて、こう呼んだようです。『日本書紀』や『万葉集』にもこれらの地名は登場し、伏見稲荷大社の創建には秦氏がかかわったといわれるなど、平安京以前から繁栄してきた歴史がうかがえます。
鴨川と桂川、そして宇治川と、有数の河川が伏見で合流して淀川へとつながることもあり、一帯は交通の要衝として発展してきました。現在は、国道1号線、24号線をはじめ、名神高速道路や第二京阪道路などの広域幹線道路が集中し、さらに京都高速道路油小路線の開通と、まさに京都の南の玄関口となっていますが、こうした道路交通網を利用できる自動車輸送どころか、鉄道さえもなかった時代から要衝であったのは、日本の近代化以前は何よりも水運が輸送の主力であったからです。伏見港は、まさに物資集積の「港」であり、現代のハブ空港のような役割をも果たしていたといえます。
同時に、周辺は豊かな自然にも恵まれていたため、平安時代には白河上皇の鳥羽離宮など、天皇や貴族の別荘も営まれています。
城南宮はそんな平安京の方除守護として建てられ、今日に王朝のおもむきを伝えてきました。
現在の伏見中心街の基盤をつくつたのは、何といっても太閤秀吉でしょう。伏見桃山城を築き、区割り整然とした城下町を整備したのは都市計画の天才、秀吉ならではのこと。今も町名の多くに名残がみられます。
経済にも文化にも先進的で独自の発展を遂げてきた伏見は、昭和四年(一九二九)、ついに独立した市政を敷いています。わずか二年足らずの間でしたが、学校や橋、道路、防災施設など、一気に大計画を発表しています。
この、伏見の潜在力は、まだまだ眠っています。堅実な発展が求められる新時代にこそ、この地域のほんとうの価値を、私たちは呼び起こしていきたいと考えています。

伏見のあゆみ

伏見のあゆみ

明治元年 鳥羽・伏見の戦い。
明治22年 京都に市制施行。
明治28年 "チンチン電車" 塩小路-油掛間開通。
明治34年 京阪電鉄 京都-大阪間開通。
昭和4年  伏見市発足。
昭和6年   京都市に編入。
昭和8年 京阪国道完成。巨椋池干拓事業起工。
昭和39年 伏見桃山城再建。名神高速道路開通。
昭和45年 府立文化芸術会館開館。
昭和51年 京都市伝統産業会館開館。
昭和53年 世界文化自由都市宣言。
昭和61年 洛南新都市(セイエンス・タウン)計画開始。
京都府総合見本市会館(パルスプラザ)開館。
平成13年 京都高速道路建設工事開始
平成23年 京都高速道路 鴨川東出入口 - 上鳥羽出入口間(油小路線)開通