俯見、伏見、伏水…みんな「ふしみ」と読んで、古くは、今の長岡京市や向日市、久御山町、宇治市から、さらには宇治田原、城陽あたりまでも含めて、こう呼んだようです。『日本書紀』や『万葉集』にもこれらの地名は登場し、伏見稲荷大社の創建には秦氏がかかわったといわれるなど、平安京以前から繁栄してきた歴史がうかがえます。
鴨川と桂川、そして宇治川と、有数の河川が伏見で合流して淀川へとつながることもあり、一帯は交通の要衝として発展してきました。現在は、国道1号線、24号線をはじめ、名神高速道路や第二京阪道路などの広域幹線道路が集中し、さらに京都高速道路油小路線の開通と、まさに京都の南の玄関口となっていますが、こうした道路交通網を利用できる自動車輸送どころか、鉄道さえもなかった時代から要衝であったのは、日本の近代化以前は何よりも水運が輸送の主力であったからです。伏見港は、まさに物資集積の「港」であり、現代のハブ空港のような役割をも果たしていたといえます。
同時に、周辺は豊かな自然にも恵まれていたため、平安時代には白河上皇の鳥羽離宮など、天皇や貴族の別荘も営まれています。
城南宮はそんな平安京の方除守護として建てられ、今日に王朝のおもむきを伝えてきました。
現在の伏見中心街の基盤をつくつたのは、何といっても太閤秀吉でしょう。伏見桃山城を築き、区割り整然とした城下町を整備したのは都市計画の天才、秀吉ならではのこと。今も町名の多くに名残がみられます。
経済にも文化にも先進的で独自の発展を遂げてきた伏見は、昭和四年(一九二九)、ついに独立した市政を敷いています。わずか二年足らずの間でしたが、学校や橋、道路、防災施設など、一気に大計画を発表しています。
この、伏見の潜在力は、まだまだ眠っています。堅実な発展が求められる新時代にこそ、この地域のほんとうの価値を、私たちは呼び起こしていきたいと考えています。